倉石源造さんを知る

師団誘致と倉石源造

出典:上越市「広報じょうえつ 2002 6・15」市史のひろば、市史編さん室だより(161)



倉石源造 倉石源造について

陸軍第十三師団の高田誘致に尽力した倉石源造(当時町長。のち初代高田市長)については『高田市史』でも取り上げられていますが、ここでは師団誘致に倉石源造がどう関わったかを中心に、最近調査された資料にも触れながら記してみたいと思います。倉石源造は、安政六(一八五九)年に高田の中小町(本町五)に生まれ、幼時に倉石典太門下で漢学を修め柏崎県立学校へ入学しますが、父を亡くし中途退学、家業の洋品店を継ぎます。明治三十七(一九○四)年日露戦争に際し、「尚武会」会長として町民大会を開き出征軍人家族の救護を企図します。師団誘致の他に「高田開府三百年祭」の祭典委員長を務め、また市庁舎や高田商工学校の建設、ガス水道事業にも大きな業績を挙げました。


師団誘致運動

明治三十七年秋の四個師団増設決定を受けて、高田町は「兵営敷地献納稟申」を寺内正毅陸軍大臣に上呈します。明治四十年初頭、「師団」が信越の地に設置されるという一報があり、倉石町長は俄然師団誘致を目指して他の候補地(長野、松本、長岡、関原、小千谷、村松、新発田、新井等)と競争します。この年の一月から断続的に上京し、日本橋区本銀町の越後屋(茂田井嘉兵衛方)に滞在すること百十余日、代議士の増田義一や在京名士の前島密からの助力も得て、参謀本部や陸軍省等に熱烈に働きかけます。町長上京中、助役の室十二郎は地元での誘致運動を促進しつつ、町長へ資料や合計二千円を超える小切手を送り、献身的に運動を支えました。調査資料の中に、師団候補地として最適の地でることを強調した「兵営敷地献納に関する追伸」 (明治四十年一月十八日)とその覚書があります。前述の「稟申」を大幅に増補改訂し、高田の尚武精神や軍隊の給養、交通の利便性、徴兵数等が具体的に記されており、何が何でも師団を高田に誘致しようという決意が表れています。師団誘致の詳細や資料については『上越市史研究』第四号の拙稿や『上越市史』資料編6・近代をご覧ください。

師団の消長

高田に設置が決定した第十三師団は、韓国併合後の「満州」駐留、シベリア出兵、関東大地震出動等々、日本近代史の重要局面に深く関わってきましたが、大正十四(一九二五)年のいわゆる「宇垣軍縮」により廃止されます。倉石源造は、大正十年五月十三日、大分で行われた全国市長会議からの帰途、能登の和倉温泉朝日屋旅館逗留中に師団の末期を見ることなく突然死去します。長岡外史・秋山好古ら名だたる師団長やレルヒ、蒋介石らの来訪で天下に勇名を馳せた第十三師団の歴史は、倉石源造という人物なくしては語れません。

(近代史部会 裏田道夫)